「シフトローカル」ではこれまで、大分県で沸き起こるITをめぐる新たなうねりの事例を紹介してきた。そして、中心部の大分市内でも、UIターンを含む若い経営者による起業や、そうした企業同士が連携してIT人材を育成する動きが生まれている。その中心人物の1人が、株式会社ashigaru(大分市)の代表・式地清志さんだ。約40年過ごした東京を離れ、初めて足を踏み入れた大分。「やりたいことを、やってきただけ」。肩肘張らず、そう自然体で語る式地さんに、移住の経緯や今の暮らしぶりを聞いた。
「大分に新たに立ち上げる会社を頼めないか」
生まれ育ったのは、東京都豊島区。大分に移住するまでは、「東京から一歩も出ていない」と都会暮らしが体に染み付いていた。仕事はシステムエンジニア(SE)としてキャリアをスタート。SE職で数社を渡り歩き、その後はWEB制作を手がける会社をいくつか経験した。いずれの職場も都内にあった。
転機は40歳のときに訪れた。「長い間ずっと休まず働き、だいぶ疲れてきたのでいったん仕事を辞めました。趣味の釣りができる場所にも引っ越そうかな」と、ぼんやり考え始めたという。最初はよく通っていた千葉県の海沿いの町か、琵琶湖のある滋賀県あたりを考えていたが、突如“大分”という選択肢が浮上する。
「大分に新たに立ち上げる会社を頼めないか」。知り合いの経営者から、そう誘いを受けた。その経営者は、式地さんが社会人生活をスタートさせた当時からの長い付き合い。当時、すでにWEB制作などを手がける株式会社ucai(東京)と株式会社ディーゼロ(福岡)を経営していたが、新たにコーディングをアウトソーシングする会社を立ち上げようとしていた。そこで、ちょうど仕事を辞めたばかりの式地さんに白羽の矢が立ったというのだ。
「会社を辞めて、どこか地方に行こうと思っていたタイミングで、たまたま声をかけてもらったんです。今まで大分に行ったことはありませんでしたし、はっきり言って何のイメージも浮かばない場所でした。ただ、場所に特にこだわりがあったわけでもなかったので、引き受けることにしました」
そうして住み慣れた東京を後にして、2015年8月に大分へ移住。コーディングを手がける新会社ashigaruの代表に就任し、現在まで4年近くに及ぶ大分での生活が始まった。
コワーキングスペースの運営、IT人材育成も
ashigaruの事業は、当初から順調に立ち上がっていった。親会社のucaiとディーゼロからコーディング業務を請け負うほか、東京で長く働いていた式地さんの人脈も生かし、東京の企業とも数多く取引している。
採用は最初こそやや苦戦したというが、地元雇用を積極的に進め、現在は業務量に応じて5人前後の体制を敷いている。ITの仕事は東京を中心に都心部に集中していることから、経験者採用は難しく、若者や主婦など未経験者を採用して育て上げている。一方で、今は東京で20年ほど働いていたUターン採用の経験者も活躍中だ。式地さんは、「仕事は東京や福岡からいくらでもとれるので、雇用さえできればどうにでもなる」と話す。
式地さんはashigaruの代表のほかに、いくつかの別の顔を持っている。それが、株式会社コラボ(大分市)と、「OITA CREATIVE ACADEMY」(おおいたクリエイティブアカデミー)の代表という役割だ。2018年11月からは、市内のIT企業・イジゲンBUILD株式会社の役員も務めている。
コラボは社名の通り、県内のITベンチャーやフリーランスが垣根を越えてコラボレーションし、様々なプロジェクトを展開するための母体。例えば、コワーキングスペース「Oita Co.Lab Lounge」の運営がその1つで、県内のIT起業家やフリーランスの人たちが集まり、交流する場になっている。県外から若手経営者やクリエイターを呼び、トークセッションなどのイベントも定期的に開催している。
一方、「OITA CREATIVE ACADEMY」は、ashigaruをはじめとする県内のITベンチャーが共同で設立したNPO法人が運営。県内の学生らを対象に、WEBアプリやデザイン制作などが学べる講義を実施している。
精力的に新たな仕掛けを次々と展開しているように見えるが、式地さん本人は「自然に生まれていった」とさらりと受け流す。「私が代表者になっていますが、『自分が中心にやっている』という特に意識はありません。同業者の若い経営者やフリーランスが集まって交流しているうちに、新たなプロジェクトが生まれてくるんです」。式地さんは表立って最前線を走るわけではないが、そうした新たな動きの“受け皿”をそっと用意してきたのだろう。誰もが頼れる存在として、地域の関係者の信頼は厚い。
「こんなことができない」という“不自由さ”を楽しむ
約40年過ごした東京を離れ、大分に来てから約4年。日常生活で不便を感じるようなことはないのだろうか。
「少なくとも大分市内の中心部は、東京近郊の都市とほとんど変わらない印象です。飲食店が閉店する時間が早いことくらいでしょうか。それ以外は、ほとんど不便さは感じませんね。買い物も、今は基本的に通販でなんでも買える時代ですしね」
それでも唯一、未だに慣れないことがあるという。九州特有の「醤油の味」だそうだ。独特の甘みに慣れず、特に移住したばかりの頃は東京の醤油を持ち歩いていたほどだ。醤油に限らず、料理は全般的に甘い味付けが多いようで、寿司や刺身を食べるときなどは今でも「東京の醤油が置いてある店を探している」そうだ。
一方、仕事をするうえでも「場所が変わっただけ」とモチベーションなどに変化はない。「コンピュータさえ使えれば、どこにいようがあまり関係ないかな。でも、仕事の絶対数が圧倒的に多い東京で最初につながりを持っていたほうが、地方に移住しても有利でしょうね。特に都心で働くフリーランスの人は、地方に来たらもっと楽だと思いますよ。東京の単価で、地方で仕事をするわけですから。生活面でも、都会の人にとっては『こんなことができないんだ』という“不自由さ”を味わうことはむしろ新鮮で、楽しいんじゃないかな。田舎に行きすぎると、嫌になっちゃうかもしれないですけどね」
別府で新たな企みも。琵琶湖で釣りもしたい
そんな式地さんは今、住まいを大分市から別府市に移そうとしている。有名な温泉街である鉄輪(かんなわ)温泉のエリアで、知り合いの紹介でもともと民宿だった温泉付きの大きな建物を借りられることになったからだ。
ただ、単に自身の住居としてだけ使うつもりはない。ゲストハウスやシェアハウスとしての利用、あるいは合宿やイベントを開催するなど、「県内外からいろんな人が集まる“遊び場”にできれば、町がおもしろくなるかもしれない」などと構想している。
仕事も別府を拠点にテレワークする時間が増えそうだ。今ちょうど、ashigaruの代表を譲り、自身は役員として関与する道を模索しているといい、「例えば週1回程度、必要なときにだけ大分市に行って、あとはテレワーク。そんな風に、少しのんびりできれば」と考えている。
「先のことは、あまり考えてないかな。行き当たりばったりを楽しみたいですね」。これが、式地さんの真髄なのかもしれない。思えば、昔から安定を嫌い、新しい環境に身を置く選択を続けてきた。東京にいた頃も、生活の拠点こそそこに置いていたが、何度も転職を繰り返してきた。「SE時代の最初の仕事で、英語もわからないのに外資系の証券会社にいきなり放り込まれ、客先に常駐して仕事をしたり。でも、今思うとそういう異質な環境に置かれることが、楽しかったのかもしれないですね」
次はどんな環境が式地さんを待ち受けているのだろうか。まずは、別府での新たな生活がスタートする。そして、「理想はもう少し経ったら、琵琶湖周辺にも拠点をつくって釣りを満喫したい」とも。決して力まず、これからも自然体で“行き当たりばったり”を楽しむつもりだ。
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