住む場所は住民票の概念でしかない。半島の先端で感じた”生きること”

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日本海に大きく突き出した能登半島。日本海側で最も突出面積が大きい半島とされ、伝統工芸の輪島塗で有名な輪島市(石川県)があることで知られる。その半島の先端にある”珠洲(すず)”という町の名前を耳にしことのある人は、果たしてどれほどいるだろうか。珠洲市はかつて海上交易の拠点として栄えたが、近代化の過程で次第に衰退。”本州で最も人口の少ない市”でもあるこの町に、昨年から移住生活を送る夫婦がいる。何が理由で、この地に降り立ったのか。

日本海に突き出した能登半島の”先端”にある町で、今何が起こっているのか…(撮影:北澤晋太郎)

”財政破綻寸前””第2の夕張市”と呼ばれた町

かつて”破綻寸前””第2の夕張市”と言われるほどの財政危機に直面した珠洲市に昨秋、県内外から大勢の観光客が押し寄せ、町は異様な盛り上がりを見せていた。市内初のアートの祭典「奥能登国際芸術祭」が開催されていたからだ。国内屈指のアートイベント「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(新潟県十日町市、津南町)などを手がけるメンバーらがプロデュースし、11カ国・地域の39組のアーティストによる作品を市内各所に展示。50日間にわたる開催期間中、人口1万4000人ほどの町は7万人を超える来客で賑わった。

その運営をサポートする”市民ボランティア”の中に、ある若者の姿があった。北澤晋太郎さん(28歳)。数日前に移住してきたばかりだった。移住を決めたのは、芸術祭の約2カ月前。ふらっと立ち寄ったときの印象が強烈で、その日のうちに移住を即決。交際していた女性と珠洲で生活を始め、今年3月には会社を立ち上げた。女性とは結婚し、今は2人で”半島暮らし”を楽しんでいる。

展望台からの眺望。”これぞ半島”と思わせるような雄大な風景だ(撮影:北澤晋太郎)

北澤さんは「奥能登国際芸術祭」にボランティアスタッフとして参加。これがきっかけで地域の友人が増えたという(撮影:北澤晋太郎)

半島の”先っちょ”で民宿の女将に口説かれる

「そのときやりたいと思ったことを、やってきただけですよ」。北澤さんは、そうさらりと言ってのける。長野県長野市出身。早稲田大学在学中に、企業ブランディングなどを手がけるベンチャー企業・イキゴトで1年間インターンを経験。卒業後は紳士服チェーンのAOKIに入社。1年で退職し、有料課金制のオンラインサロンを展開するSynapse(シナプス)に約3年勤務。その後はフリーのカメラマン、ライターとして、ITベンチャー時代の取引先や友人などから仕事を請け負う生活を続けた。

そんなある日、お世話になった仕事の関係者や旧友を訪ねる旅に出掛けることにした。その行き先の1つが、石川県金沢市だった。高校時代の友人と互いの将来を語らう中で、県職員の友人から「石川に移住しないか」と誘われ、その場で珠洲市を紹介された。その足で、すぐに珠洲へ向かうことに。「もちろん、縁もゆかりも全くない場所でした。そもそも”珠洲”の漢字の読み方すらわからなかったですから」。ただ、そんな見ず知らずの町に、北澤さんは心を奪われることになる。

「一発で気に入ってしまいました。まず、半島の先端にあるという地理環境です。”離島”は結構あるけど、”半島の先っちょ”は珍しいですよね。町の歴史にも惹かれました。かつては海上交易で栄え、朝鮮半島や中国などとの交易も盛んだったようです。それが今は、”陸の孤島”です。これといった産業があるわけでもなく、冬は豪雪が押し寄せる自然環境の厳しい場所。でもその分、日本古来の文化や風習が残っている。ここ数十年のスパンで考えれば単なる”不便な田舎”に見えますが、長い歴史や時間軸で見るとおもしろい土地だなと思ったんです」

能登瓦の屋根が風情を感じさせる街並み。右側に浮かぶのが見附島だ(撮影:北澤晋太郎)

「いい町だな。今日はひとまず帰ろう」。友人の勧めで訪れたその日は退散するつもりだったが、まだ夕方前にも関わらず帰路のバスはすでに運行を終えていた。そうしてやむなく泊まった民宿で、またも偶発的な”事件”が起きる。

「女将が僕の部屋に入ってきて、数時間ひたすら珠洲のことをしゃべり続けるんです。『人がいないから、気に入ってくれたなら住んでくれ』と。驚きましたよ。役所の職員が言うならわかりますが、普通の市民から口説かれるとは…。結局、その場で移住を決めました」

当時、東京で同棲していた彼女に電話を入れ、「仕事をやめる準備をしておいて」と告げた。彼女は最初こそ「急すぎる」と驚いた様子だったが、仕事をやめて移住の準備を始めたという。一方の北澤さんは、女将に口説かれた翌日に市役所に向かい、物件を紹介してもらった。そして昨年9月、いよいよ2人で珠洲に降り立った。移住を決めてから、わずか3週間という”スピード移住”だった。

晴れた日には、海の向こう側に立山連峰がくっきりと浮かび上がる(撮影:北澤晋太郎)

味わいのある街並み。思わずタイムスリップしたような気分にさせられる(撮影:北澤晋太郎)

妻と2人でデザインファームを起業

移住後も、”やりたいことをやる”という北澤さんらしさは健在だった。仕事は無理に探すわけでもなく、約半年間は珠洲での暮らしを知り、馴染む期間に当てた。奥能登国際芸術祭のボランティアはその一環で、これをきっかけに地域の知り合い・友人が一気に増えたという。

移住してから1年弱。今の生活は、「東京にいる頃と全くと言っていいほど変わらない」という。例えば、食事だ。スーパーで買い物をして自炊することもあれば、コンビニ弁当を食べることもある。大きく変わったのは、移動手段が車になったこと。北澤さんは移住に際して中古車を購入。ただ、車検など煩雑な手続きがあるため納品まで数カ月かかった。「移住そのものは腹を決めて動けばすぐにできますが、車の準備が思ったよりも煩雑で、時間が掛かることを知らなかった。早く動けばよかったです」。そんな些細な後悔も、今では懐かしい思い出だ。

右側にある一軒家で2人は暮らしており、オフィスも兼ねている(撮影:北澤晋太郎)

そんな中、今年は仕事の面で大きな変化があった。3月に、ブランドコンサルティングやWEBサイト制作などを手がけるデザインファーム・エスプリを創業したのだ。東京でWEBデザイナーをしていた妻と2人で、国内外から企業ブランディングやWEBサイト制作などの仕事を受注している。最近は、地元企業のクライアントも増えてきた。例えば、市の移住関連サイトの企画・制作のほか、老人ホームなど社会福祉施設のWEBサイト制作とコンサルティングなどがある。

窓から差し込む太陽光を浴びながら仕事に打ち込む。手前が北澤さん、奥にいるのがデザイナーでもある奥さん。

夫婦で足湯に浸かりながら、ゆったりとした時間を過ごす。ときには、”足湯しながら仕事”なんてことも。

北澤さん自身は、必ずしも起業にこだわっていたわけではない。ただ、全国の地方都市でよく話題に挙がる”やりたい仕事がない”といった課題は、ここ珠洲でも同じように存在した。珠洲は漁業や農業が主要産業とされるが、その事業規模は小さく”全国一”を名乗れるほどの産物があるわけでもない。そのため、高校を卒業すると大半の若者が市外へ流出しているのが実態だ。2000年頃まで2万人近くいた人口は現在、1万4000人を割り込むまで減少している。

それでも、北澤さんをはじめ市・県外から移住してくる若者もいる。北澤さんの後を追うように、奥能登国際芸術祭の期間中に滞在していた県外の学生が移住したケースがあるほか、最近も北澤さんの知り合い2人が6月に移住済みだ。1人は横浜市内に住む学生。休学して都内のITベンチャー企業で働いていたが、もともと地方自治体の初等教育に関心があったそうで、珠洲市で小中学校の教育支援員の求人を紹介したところ移住を決断。もう1人は、長野在住の地元の友人だ。「僕自身が”移住者”として迎えられるだけではなく、”珠洲市民”として新しい移住者を迎え入れる。好きな場所だからこそ、この地域に貢献したい思いが強くあります」

漁業は主要産業の1つで、漁師の知り合いから魚をおすそ分けしてもらうこともあるそうだ(撮影:北澤晋太郎)

地域の知り合いは随分と増え、休日はカメラ片手に町を歩きながら、住民たちと交流している。

日本中が湧き上がっているサッカーW杯。夜な夜な仲間たちが北澤家に集まり観戦(撮影:北澤晋太郎)

”今この瞬間を満足して生きる”

北澤さんは珠洲を初めて訪れたときから、この町特有の”空気”を感じ取っていたという。それが根底の部分で、珠洲に魅了された大きな要因になっていると話す。

”空気”とは「”覚悟”というか、”今ここを生きている感”です」。それは、この町の苦難の歴史と紐付いているのかもしれない。それを物語るエピソードの1つが、原子力発電所の誘致を巡る騒動だ。1980年代、当時の市長が原発誘致を表明。市議会も誘致を議決した。しかし、反対する住民の抗議運動が激化し、最終的に計画は凍結。それ以降、アートや文化を前面に押し出したまちづくりへと舵を切った経緯があるという。

「住民の多くが、町の将来について真剣に考えるきっかけになったんでしょうか。一度追いつめられ、危機感を味わった。だからこそ、”今この瞬間を満足して生きる”。住民と接していると、そんな力強さを感じるんです。これは僕の人生観にもマッチしていて、とても気に入っています」

珠洲の冬は寒さが厳しい。車が雪で埋まるほどの勢いで降ることも珍しくないという(撮影:北澤晋太郎)

珠洲での日々を重ねていく中で、その居心地のよさは増している。「ここで子供を育てたい」。そんな思いも芽生えてきたという。「価値観や人生観は、”環境”と”情報”で変わると思っています。子どもには、自分の道を自分で選べる人間になってほしい。東京で横並びの受験戦争や就活をするような環境にはいさせたくありません。自分で決める。そんな人生観を手にするために、珠洲はいい場所だと感じています」

少なくとも、子どもを産み育てるまでは生活の拠点は珠洲に置く。そのうえで、例えば豪雪の冬場は温暖な土地で暮らすような2拠点スタイルも試してみたいと考えている。「僕にとって住む場所は、仕事ありきで探すものではありません。加えて”どこに住むか”は、もはや住民票の概念でしかないと思っています。拠点はずっと珠洲に置いたうえで、”やりたいことをやる””今この瞬間を満足して生きる”ことに、こだわって生きていきたいですね」

半島の先端から見える景色、”陸の孤島”で感じる空気はどんなものだろうか。北澤さんにしか見えない景色、味わえない空気が、そこにはあるのだろう。

About Author

フリーライター/1983年神奈川県生まれ。2008年〜化粧品専門誌の記者を経て、2016年フリーランスに。現在、東北復興新聞(発行:NPO法人HUG)のほか、企業のCSR・CSV、ソーシャル・ローカルビジネス、一次産業、地方創生・移住などをテーマに取材〜執筆活動している。

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